終点と出発点

 疲れている。おそらく今の私を一言で言い表すなら、この言葉が妥当だろう。だがその一言に込められた思いは、様々だ。
 そう、私はありとあらゆる事に疲れている。
 定年を向かえ仕事という労働から解放されて尚、疲れている。いやむしろ、定年を向かえてしまったことで私は疲れを感じてしまった。
 私は家族のために、がむしゃらに働いた。働くということ以外に家族へ向けできることはなかった。そう信じ働いてきた。おかげで娘も息子も立派に成長し、私の元を巣立った。だが妻は……そんな私に不満を募らせていたようだ。
 先日、離婚が成立した。仕事ばかりで家族を顧みない私に愛想が尽きたと、彼女はそう私に告げた。だが……それが方便であることを、私は知っている。むしろ彼女は、働くばかりの私を都合良く思っていたようだ。こんな時期に離婚を切り出したのも、私の退職金を狙っての事だと私には判っている。判っているからこそ……私は離婚に応じた。彼女の求める慰謝料などの条件も、そのまま受け入れた。争うだけの根気が、私には残っていなかったから。
 家族のために働いてきた。そう信じていたのは私だけだった。妻は何時の頃からか……もしかしたら結婚当初から……彼女は私を金づるとしか見ていなかった。初めて彼女の浮気が発覚したときは寂しさを理由に挙げていたが、その頃から彼女は私に給与の話しかしなかった。昔「亭主元気で留守が良い」という言葉が流行したが、彼女はその典型例と言える。
 それでも私は、家族を愛した。そのつもりだった。だから私は彼女に文句も言わず、何度も浮気が発覚しても目をつぶり、出来る限り残業もこなし、飲みに行くことも極力避けギャンブルにも手を出さなかった。真面目だけが、私の取り柄だから……そうすることでしか私は家族を愛せないのだと、自分に言い聞かせながら。
 愛想が尽きた……か。それは私の言葉だよ。せめてもの救いは、子供達が独立していることか……これで私の手元に残ったのは、僅かな金銭のみか。家も彼女に明け渡し、帰る場所すら私にはもう無い。息子も娘も新しい家族を持っている。今更子供達の世話になるわけにはいかない……そんな私は、今ここにいる。眼前には沖縄の綺麗な海が広がっている。
 旅行は……何年ぶりだろうか。新婚当初妻に強請られ新婚旅行で訪れたのがここ沖縄で、それ以来か……本当に私は、家と会社を往復するだけの日々だったな。それでも私はこの綺麗な海をずっと覚えていた。当時の思い出はほとんど消えているのに……思い出したいとも思わないが……そんな私なのに、この海の鮮明な画像を脳裏に残し続けていた。だからなのか……残った僅かな金銭をかき集め、後先考えずにここまで来てしまった。
 疲れた……念願だったこの景色を眺めながらも、私の心が安まることはなかった。私はただジッと、誰もいない海を何時間も眺めていた。強かった日差しも次第に和らぎ、徐々に赤みを増している。それでも私は海を眺め続けた。こうしていることしか、今の私に出来ることはない……そう思えて仕方がない。ただただ、私は疲れていた。波の音が優しく私の耳へ届くが、その優しさも私を癒しきれない。唯一休まることがあるとすれば、人気が全くないことくらいか。ここが穴場だと唐突に話しかけてきたあのふくよかな男性には感謝しなければな……彼が何故私に声を掛けてきたのか今でも不思議だか、そんな疑問に悩むだけの気力すら、私には残っていなかった。この先のこと……今後の人生に悩む気力すら、今の私にはないというのに。
 ふと、ここが私の終点……人生というただひたすらに長いだけのレールを走り終えた私の終点なのではないかと思えてきた。そう思えば、そんな気がする。この風景は私への手向けにしてはいささか美しすぎるが、こんな風景を最後に見られただけ良かったのかもしれない。私は靴を脱ぎ、ふらふらと海へ向かっていた。
 そんな私の足が止まった。不意に聞こえた歌声によって。
 誰もいなかったはずなのに……しかし歌声は徐々にハッキリと私の耳に届く。その声は波よりも優しく沈む太陽よりも温かく、私を包み込んでくれるような甘く美しい旋律。絶望という疲れを癒す歌声へ、自然と私の足は向かっていった。
「あら、今晩は。こんな所に人間が来るなんて珍しいわね」
 まさに歌姫。声の主は姫という言葉が似つかわしいほどに麗しい女性だった。こちらに向け微笑むその笑顔は歌声同様、波音よりも優しそうで沈む太陽よりも温かい。
 だがなんということか……夕暮れ時は逢魔が時とも言うが、こんな事が現実にあるのだろうか。彼女の半身は魚……どう見ても、人魚のそれであった。童話の挿絵通りの姿で、いや挿絵などでは表現できぬ美しさを携え、彼女は岩場の上に腰掛けていた。たおやかな乳房を露わにしているがいやらしさはなく、かえって美しさを強調していた。
「ふふ、どうしたの? 驚くのは判るけど、ずっとそんなところで立ちっぱなしじゃ疲れない?」
 そうは言われても、私はまだ状況を理解できていない。それなのに……ふらふらと身体は勝手に彼女へ近づいていた。絶やさぬ笑顔に導かれ、私はあろう事か彼女が招くまま彼女の隣に越しかけた。
「歌、聞いてくれる?」
 微笑みながら尋ねた彼女は、しかし私の返事は待たずに歌い始めた。
 私は最近の流行歌など知らないし、そもそもその手の娯楽を親しむ余裕がなかった。それだけ歌の知識に乏しい私には、彼女の歌うその曲がどのようなものか判らなかった。判るのは彼女が日本語でも英語でもない異国の言葉で歌っていることと、いつの間にか私が大粒の涙をポロポロと流していたこと。それだけだが……それだけで充分だった。
 ああ、癒されるとはこういう事か……私はいつの間にか心が軽くなっていたことを実感した。全ての疲れを涙に含め、そのまま洗い流しているような……いや「ような」ではなく事実その通りなのだろう。拭うことも忘れた涙を止めどなく溢れさせ、感動で身体を小刻みに震わせながら、ただただ私は彼女の歌声に酔いしれた。
「……ふふ、どうだった?」
 彼女が歌い終えた時には、私が生涯抱え込んできた全ての疲れが流れ出ていた。その感動感激に当てはまる言葉などあるはずもなく、私は微笑みこちらを見ている彼女の顔を見返すのが精一杯だった。
 その微笑みが、少しずつ少しずつ、近づいてくる。私には近づく彼女へ抵抗する統べも意志もなく、待ちかまえるだけ。
 訪れたのは、柔らかい感触。全てに乾ききった唇に重なる、全てを潤す唇。
「んっ……」
 重なるだけだった唇が、僅かに圧力を増す。気付けば彼女の手が私の後頭部を掴み、彼女の方へと引き寄せている。
「ん……チュ、チュ……」
 ついばむように唇を離したり押しつけたりを繰り返す。その度に漏れる音と柔らかい感触が、私の心を高ぶらせた。
「……全部、出しちゃえば良いよ」
 そう私に語りかけた彼女の唇はまた私と重なり、そして強く押しつけられたまま顔を揺すられ擦りつけられる。
 ほどなくして、私の唇を割り口の中へと進入してくる物が……彼女の舌だ。私の中へ進入してきた舌は私の中を、舌を、ねっとりと嘗め回す。こんな濃厚な接吻は、生まれて初めてだ。初々しかった頃の別れた妻とだって、こんなことまでしてはくれなかった。むろん私は他に女性を知らないため、そもそもの経験数も少ないのだが。それでも私は懸命に舌を動かした。どうすれば良いのか全く判らないが、心が求めるままに彼女の舌を求め、求められるままに彼女の舌を受け入れる。
「クチュ、チュ……ん、チュ……」
 これほどまでに、心を熱くしたことがあっただろうか? 若い頃ですら、ここまで身を焦がすほどに熱く慣れたことはなかったはず。あるいはあまりにも昔の記憶を完全に忘れているだけかも知れないが……いずれにせよ、新鮮で衝撃的な接吻に、年甲斐もなく私は興奮していた。自分でも気付かぬうちに、彼女を抱きしめるほど。
 ふくよかな乳房が私に押しつけられ、形を変えているのを実感する。だがその様を見ることは出来ない。彼女との接吻に夢中となっている私に、それを確認するだけの余裕はないから。それでもたわわな感触に胸を更に高鳴らせていることだけは実感している。
 不意に、私は身体を傾けバランスを崩した。彼女が唇を重ね私の頭を抱えたまま、後ろへ倒れるように身体を傾けたから。彼女を抱きしめていた私はそのまま彼女と共に前へ倒れ込み、そして……岩場から海へと身を投げた。
 大きな音と水しぶきがたつ。それでも彼女は私を離すことなく、また私も彼女を抱きしめたまま沈んでいく……しかし直ぐさま私達は海面へと上昇する。彼女が接吻を続けたまま泳ぎ続けることで。
「服、脱いでからの方が良かったかな」
 ようやく離れた唇は、イタズラっぽく微笑んだ。いつの間にか日は沈んでおり、月明かりと水滴が彼女をきらめかせその笑顔を眩しくさせる。その眩しさに僅か目を細めながらも、私も釣られて唇を緩める。ああ、なんという心地よさ……この充実した気分は何だろう? 遠い昔に置き忘れてきた暖かなこの感情を、私は戸惑いながらも素直に受け入れていく。
 これが……恋、だ。久しく忘れていた感情の蘇りはあまりにも初々しく……そう、まるで初恋のように私をときめかせ夢中にさせる。私は彼女に、恋をしてしまった。
 愛しの君は私を抱きしめ、すーっと岩場の岸まで泳ぎ私を連れて行く。そしてそのまま私に岩へ寄りかかるよう促した。まるであつらえたかのように背もたれと肘掛けのような凹凸のある岩場へ私は身体を預け、半身を海に漂わせた。
 私が身体を落ち着かせたのを見計らって、彼女は潜りながら私の下半身を覆う衣類を脱がせていく。濡れた服は脱がせ辛いのだろう、少し手間取っているようだが……私はされるがままに待っている。
 そして露わになる私の半身。脱がせ終えた衣類を器用に岩場へ引っかけ、彼女はまた潜り、そして……脱がせるのを困難にしていた、いきり起つ私の分身に顔を近づける。
 この歳になってこれほど……私は自分に驚いている。そしてもっと驚くべき事に、彼女は海の中に潜ったまま近づけた顔を更に近づけ、私に潤いを与えてくれた唇の、その中へと私の分身を導いて行くではないか。
 暖かな感触と、何とも形容しがたい潤った感情が、私の分身を通じ彼女から伝えられる。私も懸命に求めていたあのねっとりとした舌が私の分身を包み、あるいは突き、舐め上げ、擦り、熱く熱く、感情も感触も高ぶらせていった。
 彼女は私の分身を加えたまま、水中ではほとんど動かない。唯一ゆっくりと大きく動く彼女の尾だけが、泳いでいることを証明しているくらい。だが彼女の中……私の分身に絡みつく彼女の舌は外から見た動作とは異なりとても激しく、だが優しく、私を攻め、そして包む。
 分身の先端を突くようにしながら既に出てしまっているだろう液体を舐め取っている。かと思えば舌の脇を分身のくびれに押し当て、そのまま擦るように横方向へ往復させてみたり。口をすぼめ分身を吸引しながら裏筋にピタリと舌を押し当てたり、あるいは唇で分身の竿をもごもごと刺激しながら舌先でツツと竿をなぞってみたり。そもそも私は女性の口でこんな事をされたことがなく、ただただ与えられる刺激に酔いしれているだけで……じっと、彼女の行為と好意を甘んじて受けていた。
 程なくして彼女は唇から私を離し、水面から顔を覗かせる。
「そろそろ……ね。私も」
 照れる彼女がまた愛おしく、私は恋心を更に募らせた。
 岩場に手を掛け、彼女は私に覆い被さるよう半身を海面から持ち上げる。私はそんな彼女を抱きしめながら岩場へと身体を預けた。
 片手を岩に着きバランスを取りながら、彼女は空いた手を海面の下へ潜らせ……人と魚の境目となる腰、そこより僅かに下のあたりに手を添えた。そして鱗を指でゆっくりとずらすと……熟した女性そのものが露出する。
 彼女はゆっくりと腰を私に近づけ、露出した彼女の中へ私の分身を導いていく。
「んっ……ふふ」
 照れ笑いとは裏腹に、彼女の中は大胆に蠢いた。分身を圧迫する膣壁は、まるで生きているかのように波打ち根本まで刺激してくる。
「驚いた? 人魚はね、海の中でも気持ち良くなれるように腰を使わないで中を動かすの」
 水の抵抗がある中で腰を動かすのは人魚でも大変らしく、その為種として膣の機能が人間のそれとは発達の仕方が違うらしい。しかし私にはそんな種の違いなど意味を成さない。彼女が私と繋がっている……その事実がまず大切なのだ。むろん彼女が与えてくれる膣壁の筆舌し難い快楽は私を高揚させているが。
「あん……動かさないでも大丈夫なのに……んっ! でもやっぱり、そうしてくれると私も……んっ、あんっ!」
 私は腰を微力ながら精一杯に動かしていた。腰を押しとどめる方が難しく、本能が腰を勝手に動かしているようなものだが。それでも彼女が喜んでくれるなら……恋心と本能が入り交じった、彼女への熱い想いが原動力となり、老いた身体に鞭を打つ。
「ん、ん……クチュ、チュ……ん、チュパ……」
 何時しか、私達はまた舌を絡め互いを求め合っていた。恋心が彼女を求め、本能が彼女を求め、恋心が求められることを喜び、本能が求められることを悦んでいる。ここまで女性に思いを寄せ女性の思いを欲したことがあっただろうか……かつてはあったかもしれない。だがとうに枯れたその思いはもう、紙切れと印鑑を用いて捨ててきた。何も残っていない、何も求められない私が、こうしてまた求め、求められる……まだ私は、それだけの活力が残っていたのか……。
「ん、あっ! そろそ、ん! ね、いっ、いく、から……ちょ、ちょうだ、い、あなたの、あなたのぉ!」
 求められている……そして私も求めている。激しく圧迫を繰り返す膣壁を精一杯分身で擦りながら、求め求められ、二人で……ああ二人で……一人ではなく……私達は高みへと登り詰めていく。
「でっ、でそう? でそうなのね……い、いいよ、そのまま、なか、なかへ、ぜんぶ、ぜんぶだし、て……ほしい、ほしいの、だし、だして、ん、あっ! ふあ、んぁああ!」
 老いた腕に力がこもり、機械仕掛けのようだった腰はピタリとその動きを止めた。そして私の中から彼女の中へと、求め合った結果が注がれていく。
「ふふ……全部、出せた?」
 聖母の微笑みに、私は年甲斐もなくはにかみながら答えた。
「良かった」
 乱れた髪を掻き上げながら、彼女はまた唇を重ねてくる。
 全部出せた……か。ああそうか。私は……背負っていた「疲れ」を全て吐き出していたことに気付く。そして疲れで埋まっていた私の心に、暖かな感情が埋まっている。何もないはずの私に、何かが生まれていた。
 だが私は疲れていた。そうだろう、そう簡単にはいかない……老体に鞭を打てば疲れて当然なのだ。しかしこの疲れは心地好い……私は彼女を抱きしめたまま、その心地よさに身を預けていた。

 消息不明……私はそういう状況にあったらしい。
 当然か。誰に何も告げることなく旅立ち、そのまま黙って旅先に止まっていればそんな扱いになる。
 あれから一週間という時間が流れていた。私にとってはもうあまり意味を成さない時間という概念に、しかし私を捜していた息子にとっては長い一週間だったようだ。
「どうしたんだよ、真面目な親父らしくない……」
 そうだな。確かにかつての私らしくはなかったな。私は懸命に私を捜してくれた息子に深く頭を下げ詫びた。ただ息子には悪いが……こんな私をずっと捜し続けてくれた事がとても嬉しくて、どうしてもにやけてしまうその顔を隠したかったというのも頭を下げた理由にはあった。
「まっ……判るけどさ」
 頭を掻きながらも、私の無事に胸をなで下ろす息子。彼は彼なりに、私の心境を察してくれているのだろう。私に似てぶっきらぼうな物言いには、そんな彼の気持ちがこもっていた。
「で、結局ここに移住するんだね?」
 手続きも何も無しにここでの生活を始めているのだから、その答えは出ている。
「判った。手続きはコッチでしとくよ……」
 探し出すだけに飽きたらず、色々と手間を掛けてしまう事へ私はまた息子に頭を下げた。
「いいよ……いやなんつーか、さ……やっと、親孝行らしいことが出来たなって……」
 働きづめの私を、息子は息子なりに見ていたのか……視線をそらし頬を指で書く息子の姿に、私は胸を熱くさせていた。
「じゃ、わりぃけどもう帰るわ。仕事貯めてきてっからさ」
 仕事か……かつての私が歩んできた道を、また息子も歩んでしまうのだろうか。そればかりはとても心配だ。そんな不安が顔に出ていたのだろうか、息子は苦笑いを浮かべながら私に言った。
「大丈夫だよ。俺はさ、親父……俺達のために一生懸命働いてくれた親父に、感謝してるんだ。姉貴だって同じだよ。あっちで心配して俺の連絡待ってるしさ……」
 言うなり、すぐに背中を見せてしまった息子。照れているのだろう……。
「ありがとな……これからはゆっくりしてくれよ。今度はうちの家族連れて遊びに来るから」
 片手を振りながら、息子はそのまま帰って行った。そうか……働くことしかできなかった私でも、子供達には役立てたか……そう思えば、これまでの人生も無駄ではなかったと胸を張れる。
 しかし私にはこれからの人生が待っている。これまでの人生に区切りを付けた私でも、これからの生活が待っている。私にとってこれからの生活は……これまでにない潤いに満ちたものになるだろう。少なくとも今の私にはそう思える。そうとしか思えない。
 私は立てかけてあったまだ真新しい銛を手に取り、海岸へと向かう。
 そこにはまばゆい笑顔を絶やさない、私の生きる糧……心の糧、希望と幸福の女神が待っている。

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