偶然〜つらら女〜

 その日、夜は非常に暑かった。
 熱帯夜、という言葉ですら生ぬるい。それほどに暑い夜だった。
 世間的に見れば、今日一日だけが暑かったわけではない。だが俺にとっては今日一日だけが特別だった。
 何故ならば、突然エアコンが壊れてしまったから。
 厳密に言うと、エアコン本体は壊れていない。リモコンが壊れたのだ。
 一昔前は、像が踏んでも壊れない筆箱があったらしいが、なら今は、人が壁に投げつけても壊れないくらい頑丈なリモコンにすべきだと俺は言いたい。
 むろん、この際俺がリモコンを投げつけた事に対する罪を問うてはいけない。
 ……ムシャクシャしてやった。今は反省してる。
 ともかく、既に店は閉まっている時間。買い直すにしても明日にならなければ無理だろう。
 幸い、扇風機はある。これで今日一日ぐらいは過ごせるかと思っていたのだが、考えが甘かった。
 普段からエアコンの恩恵を受け続けていた俺は、扇風機だけでは我慢出来ない。元々暑がりな上に、この猛暑だ。とても耐えられない。
 そこで俺は一計を案じ、今こうして買い物をして帰宅している途中だ。
 両手一杯のロックアイス。俺はコンビニでありったけのロックアイスを買い占めた。
 これを桶に移して扇風機の前に置けば、涼しい風が来るはず。かなり非経済的だが、今日一日だけならまあ仕方ない。
 これで、問題は解決する……はずだった。
「くっ……そぉ! おめぇ!」
 両手一杯のロックアイスをガシャッと派手に道ばたへ置き、俺は両手を何度も上下に振った。
 重い。とにかく重い。
 片手に五袋ずつ。つまり約5キロ。持てない重さではないが、長時間持って歩くにはキツイ重さ。加えて、コンビニの袋が手に食い込むので痛い。
 何もこんな暑い中で、ウエイトトレーニングみたいな事をしなくても……涼しくなる為のはずなのに、俺は大量の汗をかき息を荒げている。着ていたTシャツはずぶぬれだ。
 こんな事なら自転車で来れば良かった。歩いていける距離なら、自転車を出すのも面倒だなと思ったのが裏目に出た。
 何事も、無計画すぎるな俺は。思い立つとすぐに行動してしまう。
 行動力がある、と言えば聞こえは良いが、無鉄砲、という言葉の方が俺には合っているだろう。
「ったく、なんなんだよ今日は……」
 今日は厄日だ。もう、そうとしか思えなかった。
 思えば、今こうして重いロックアイスを運ぶハメになった原因は、リモコンの大破。
 そのリモコンを投げつける程に腹を立てていた原因は……いや、それはいい。思い出して又腹を立てるのも面白くない。
 そもそも、腹を立てる事が筋違いだ。
 まあ、怒りの矛先は己の不甲斐なさなのだから……そう思うからこそ腹が立つ。
「……はぁ。もういいよどうでも」
 思えば、今の状況はかなりバカバカしい。そんな自分の姿に溜息をつき、怒りを静めた。
「さて、もうちょいだ」
 地べたに置いたコンビニの袋をまた握る為に、俺は腰を屈めた。
「……ん?」
 ふと屈めたまま見つめた先。道の向こうで、人が倒れている。
「酔っぱらいか?」
 ここは住宅街。酔っぱらいが寝転がる光景もありえる場所ではあるが、それにしても珍しい。
 しかもよく見ると女性のようだ。
 こんな暑い中、酔っぱらっているとはいえよく寝ていられるな。いや、寝ていたくて寝ているのではないのだろうが。
 なんにしても、道の往来で女性が一人寝そべっているのは良い事ではない。俺はガシャガシャと氷を鳴らしながら、寝そべっている女性に近づいた。
 氷の音がうるさかったのか、女性は俺の接近に気付き寝そべったままこちらに顔を向けた。
 俺は立ち止まった。
 女性の顔を見て、俺は足を止めてしまった。
 女性の顔は頬の肉がそぎ落ちたかのように酷くやつれ、まるで髑髏に皮だけを張り付けたよう。よく見ると服はずぶぬれになっており、女性の周囲も湿っているのが街灯の明かりだけでもよく判る。
 あまりの光景に、俺は立ち止まったままで声すら出せなかった。
 どうして良いのか、その判断が全く浮かばない。
 ちょっとした、ホラー映画のワンシーンみたいだ。判断は出来ないのにこんな事だけは思いつく。
 だが……不思議な事に、驚いてはいるが怖くはなかった。
 理由は……よく判らない。おそらく、もう驚きで判断力が鈍っている為何じゃないだろうか。
 なんて、こんな事は冷静に分析するのに足はまだ動き出そうともしない。
 ここはそれこそ、悲鳴を上げて逃げ出しても良いような光景だ。そうしなかったのは、あまりに驚き足がすくみ上がってまだ動かないからだろうか。
 それもある。それもあるが、それと同時に、俺は女性……長い髪と濡れた服からそう推測しているのだが……その女性が「生きている」と確信したからだろう。
 こちらに顔を向け、顔同様かなり細くなっている腕を微かに動かしながら、女性は何かを呟いている。
 これもそれこそホラー映画のワンシーンみたいなのだが、俺は女性の反応を見て「生きている人間」と判断したようだ。
 足がようやっと動き出した時、その足は逃げる為に後方へ動いたのではなく、女性の言葉をハッキリ聞き取ろうと前へと動いていた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
 女性の前で屈み、俺は問いかけ続けた。
 女性は唇を振るわせ、呟いた。
「こ……氷を……」
 氷? こういう時に「水」を求めるシーンなんかを映画やドラマで見る事は良くあったが、氷をねだられるとは。
 そして何という偶然か。氷なら今大量にある。
 俺は置いてきた氷の山をすぐ取りに戻り、それを持って戻ってきた。
 そして中から一袋を取りだし開け、小さな氷を一欠片、女性の唇へと運んだ。
 女性は弱々しく震える唇を自ら氷に近づけ、そしてちゅるりと氷を飲み込んだ。
 そう、飲み込んだ。いくら小さいのを選んだとはいえ、一口で飲み込める大きさではなかったのに。
「もっと……」
 考えている暇など無かった。俺は求められるままに氷を一欠片つまんでは女性の口へと運び続ける。
 次第に小さな物はなくなり、徐々に大きな氷を運ぶ事となっていく。流石に一口で飲み込めなくなったのか、女性は二三度かみ砕いてから氷を飲み込むようになっていく。
 そしていつの間にか、女性は半身を起こし、氷の袋を自分で掴みむさぼり食うように氷を口へ次々と運んでいくようになった。
 一袋を食べ終え、そしてすぐに自ら封を開け二袋目へ。
 あっけにとられていた俺は、少し気が付くのが遅かったが、女性が三袋目に手をかけたところである変化に気付いた。
 女性の顔に精気が戻り、頬の肉も膨らんでいる。骨張った腕も肉が付いたかのように以前より膨らんでいる。
 どうなっているんだ? 俺は軽いパニックに陥っていた。
 先ほどまでは、さもゾンビか何かかと思える程にやせ細り倒れていた女性が、今は細身ながらしっかりと身体を起こしている。
 そしてガツガツと、俺が買ってきたロックアイスを食べ続けている。
 ホラーといえば、そうかもしれない。しかし恐怖はない。
 俺はこの衝撃的だが不思議な光景に、目を釘付けにされていた。そして最も衝撃的だったのは、女性が五袋目に手をかけた時だった。
「せっ……先輩?」
 透き通る白い肌と、濡れた美しい黒髪。そして元に戻った頬。
 その顔は、見覚えがあった。
 見覚えがあったなんてものではない。
 ずっと眺めていたいと思い続け、そして今日、早く忘れなければと願った、その顔を。
「きっ……君……どうして……」
 先輩は今の今まで、氷に夢中で俺の存在を気に留めていなかったのだろうか。
 俺が声をかけた事でやっと気付いたらしい。氷を分けてくれたのが会社の後輩だという事に。
「あっ、俺この近くに住んでますから……それより、気にしないで食べてて下さい。沢山ありますから」
 なんとも間抜けな言葉。しかしこれ以外に言葉が浮かばなかった。
 先輩は流石に、先ほどまでのようにガツガツとは食べなくなったものの、それでも氷を気まずい空気の中食べ続けていた。
 先輩にとって氷は、死活問題なのだろう。
 あの誰とも判別付かなかった、痩せこけた状態からここまで回復したのは、氷を食べている為なのだろう事は、なんとなく判る。
 だが……何故氷? そういう病気なのだろうか? そもそも、先輩が何故ここに?
「あの……助かったわ。ありがとう……」
 六袋目を平らげたところで、先輩は俺に礼を述べた。
「いえ……」
 それしか、言えなかった。
 他に、なんて声をかけて良いのか判らなかった。
 数時間前の事を考えると……言葉なんか出てきやしなかった。
 そんな俺の様子を、先輩は少しだけ勘違いして受け止めていた。
「ごめんね……驚くよね、誰だって……あの、出来れば誰にも言わないで欲しいの……この事は……」
「いえ、そういうんじゃなくて、その……」
 咄嗟に、俺は先輩の言葉を塞いだ。勘違いして欲しくなかったから。
「その、あの……俺まだ、先輩の事、その……」
 結局、言えたのはここまでだった。
 言えなかった。これ以上は。言ってしまっては、お互い又辛くなりそうだったから。
 いや、辛いのは俺だけかな。先輩は結局、何とも思ってないんだろうし……俺の事は。
「……そうね、そうだったわね。ごめんね、自分の事ばかりで……本当に、ね……ごめん……うぅ、ごめん、な、さい……ひっく……ん……」
 急に、先輩は泣き出してしまった。
 俺は又、軽いパニックに陥ってしまった。
 女性を泣かせてしまった。そんなつもりなんかこれっぽっちもなかったのに。
 どうすれば良い? 女性の扱いに不慣れな俺は戸惑っていた。
「あの、先輩、泣かないで下さい……と、とにかく、送りますよ。先輩の家はここから近いんですか?」
 先輩は軽く頷いた。
 とにかく、落ち着ける場所が欲しかった。
 距離的には自分の家が最も近いと思ったが、女性を男の家に連れ込むのはまずいだろうと判断し、先輩の家を選択したが……これで良かったのだろうか?
 なによりまず、この場を離れたかった。
 今先輩の服はびしょぬれ。服は透け、下着がクッキリと見えてしまっている。こんな状態のままで道の往来に立ち続けるのはまずかろう。
 俺は目のやり場に困りながら、先輩の案内の元、彼女の家へと向かった。

「あの……上がっていって。話したい事が……話さないといけない事があるから」
 先輩の家に着いた時。俺はすぐに帰ろうと思っていた。
 やはり、気まずい。
 そもそも、一人暮らしの女性宅に男が一人入るのは、まずかろう。
 そうでなくとも、今日という日は色々とありすぎた。先ほどの事も、そして……その前も。
 しかし先輩は、俺を招いた。
 それを断る理由はない。いや、理由以前に断れないと思う。
 話さないといけない事。それは間違いなく、先ほどまでの光景についてだろう。
 まるで干からびたかのように倒れていた先輩。そして氷を食べただけで回復した先輩。俺はこの事を誰かに言うつもりなんて無い。しかしそう伝えても先輩は半信半疑のままだろう。
 なら一度全てを聞いて、どうにかして先輩の信用を得た方が無難だ。
 たとえ、今気まずい間柄だとしても。
「はい、では……お邪魔します」
 ドアを開け玄関に入る。その刹那、俺は激しく身震いした。
 寒い。
 熱帯夜の中、汗をかきながらここまで訪れてきた身に、強烈な冷気が包み込んだ。冷房が効いている、なんてものではない。効き過ぎだ。
「ふぇ……フェックション!」
 急激な冷気に当てられ、俺は大きなくしゃみをしてしまった。なんだ、この寒さは。尋常ではない。
「あっ、ごめんなさい……「君には」寒すぎるよね。あの……ちょっと温度調整するから、外で待っててもらえるかしら……」
 両腕で自分の身体を抱きしめ振るえ始めた俺に、先輩は平然と一時退室を求めた。
 寒くないのか? しかも服は濡れているというのに。
 疑問は感じたが、それを特に口へ出すことなく、俺はドアの外へ出た。
 待つ間、俺は色々な事を考えていた。
 今日という一日は、後先考えずに先走る俺の性格が、様々な「事」を起こしてきたな。
 ムシャクシャしてリモコンを壊してしまったのもそう。
 安易な冷房方法を思いついて、氷を大量に買い込んだのもそう。
 そして先輩と気付かずに助けたのも……。
 まさか先輩に、こんな形でバッタリ出くわすなんて思いもしなかった。
 俺は明日、どんな顔をして出社すれば良いんだろうなんて考えていたところだったのに。
 「あんな事」を伝えたばっかりに気まずくなった中で、明日どうやって先輩と顔を合わせればよいのだろう。
 そんな事を考えていた矢先に、まさか明日どころか今日また会うなんて……。
 俺の中で、先輩に対する「不思議な事」を考える余地はなかった。ただひたすら、先輩との「仲」をどうすれば良いのか。そんな事を考えていた。
 明日会社で会うどころか、この後すぐ彼女の部屋で顔を合わせる。その時、俺はどんな顔をすれば良いのか……。
「あっ……もう、いいわよ。入って……」
 具体案など何も浮かばないまま、俺は再びドアを開け、彼女の部屋へと入った。
「まだ寒いよね? あの、男の人のコートとかは無いから……これでも羽織ってて……」
 手渡されたのは、厚手の毛布。それを肩からかけ全身を包みながら、俺は部屋の奥へと招かれるまま進んでいった。
 毛布からは防虫剤の臭いがする。おそらく俺に渡す為に、慌てて押入から引っ張り出してきたのだろう。
「あっ、適当に腰掛けてて……」
 部屋の中は、こぢんまりとしていた。
 テレビなどの電化製品やタンスなどの家具が一通りそろった、まさに一人暮らしをしている人の部屋。
 一点、ベッドがウォーターベッドなのが一人暮らしの割りに豪華だと思わせるくらいか。
 インテリアなどは少ないが、殺風景という程でもない。床がフローリングなのが、畳好きの俺にはちょっと居心地悪い。
 むろん、居心地の悪さはフローリングだけのせいではなく
 一人ぐらいの女性の部屋に入って来たという緊張感と、そして未だにどんな顔を先輩に向けて良いのかに苦悩している自分のせいだ。
 今そんな事で悩んでいるなどと思われてはいけない。
 俺は中央に置かれた座卓の前に腰を下ろし、出来る限り平静を保とうと必至になった。
「ごめんなさい、あの、ポットとか無くて……」
 麦茶の入ったグラスを俺の前に置きながら、先輩は詫びている。
「いえ、お構いなく……」
 この寒い部屋では、確かに熱いお茶が欲しいところだが……いやむしろ、緊張で喉が渇いてきた今なら、麦茶の方が都合良かったかもしれない。
 俺は一口軽く麦茶を喉に流し込み、すぐにグラスを置いた。コトっという音が室内に響いた後に、しばし場を沈黙が支配した。
 話したい事がある。そう言って先輩は俺を部屋に招き入れた。だが先輩は、その話を切り出せないでいる。
 そんなに切り出しづらい話なのか? いやまあ、よく考えればそうだろう。
 冷製に考えれば、確かに先輩が倒れていた時の状況。そして氷を食べ始めてから回復するまでの状況。あれは異常な光景だ。その説明となれば、言葉を選ぶのも慎重になるだろう。
 今先輩は、辛い立場なのだろう。
 確かに、気になる事ではある。でも無理に聞く気はない。
 先輩が心配しているのは、俺が方々で言いふらしやしないかという事なんだろう。
 なら、俺から安心させてあげるべきかな。俺に出来る事なんか、それくらいだから……。
「あの、さっきも言いましたけど、俺はその……人に言ったりとかはしませんから。だから言い辛かったら無理……」
「違うの!」
 どちらかと言えば大人しめの先輩が声を荒げるところを、俺は初めて耳にした。
 驚き固まっている俺を見て、先輩は小さな声でごめんなさいと謝罪し、上げた腰を下ろしていた。
「……信じて貰えるかどうか判らないけど……聞いて欲しいの」
 改めて、先輩は話を始めた。
「私は……「つらら女」という、妖怪なの」
「つらら女……ですか」
 どこかで聞いたような記憶もあるが、鮮明に思い出せない。何時何処で聞いた名前だろうか?
「イメージは雪女と思って貰えれば大丈夫かな……厳密に言うと違うのだけれど、普通の人から見れば大差はないから」
 雪女みたい、という事で思い出した。
 つらら女。確か老夫婦だか若い男だかの家に訪れた女性が、勧められた風呂に入浴する事になってしまい、溶けていなくなってしまうという話だったような。
「私は……見ての通り普通の人間と見た目は変わりないのだけれど……身体はつらら、つまり氷で出来ているの」
 先輩の話によると、つらら女……先輩は身体が氷で出来ている為に、部屋はエアコンの設定限界まで温度を下げ続け、そして寝る時はよく冷えた氷水を入れたウォーターベッドで寝るとの事。
 日常生活では、夜こうして貯めた冷気を「妖力」で維持し持ちこたえているのだとか。
 それでもやはり暑いところは苦手で、場合によっては溶けてしまうらしい。
 そう、先ほど道ばたで倒れていた先輩のように。
「あのままだったら私、溶けて無くなる……つまり死んでいたわ。あなたは命の恩人だわ……ありがとう」
 ああ、だから服や髪があんなに濡れていたのか。あれは先輩が溶けて出た水分なのか。
 あの状態から回復するには、溶け出した水分と冷気の補給が必要だったらしい。それを一度に行える氷は、まさに特効薬となっていたそうだ。
「そうだったんですか……いや、偶然とはいえ良かった。先輩を助けられて」
 本当に、奇跡としか呼べない偶然。それで先輩の命が助かったのならこんなに喜ばしい事はない。
 今の今まで、まさか生死にまで関わる事だったとは思いもしなかっただけに、
 俺は急に事の大きさを実感し、大きく安堵の溜息を漏らしていた。
「あの……ね、君。驚かないの?」
「え?」
 突然、先輩が妙な事を聞いてきた。
「いやだって……私は妖怪で、その……」
 ああそうか。そう言われればそうだ。
 どうにも、先輩を発見した時の衝撃が強すぎて、その謎が解けたところで落ち着いてしまっていた。
「もしかして……信じてない……かな?」
「いやいや、そういう事ではなくて……」
 俺は慌てて、先輩の言葉を否定した。
「信じてますよ。だってあんな場面に出くわしたんですから……いや、それよりも先輩の命が危なかったんだって事の方が驚きで……助かって良かったなって……」
 素直に、思っていた事をそのまま伝えた。
 むしろ今度は、俺が信じてくれているのかを先輩に問いただしたい気分だ。
「正直に言えば……妖怪だつらら女だと言われても、実感に欠ける、というか……いまいちピンと来ないというところはあります。でも、妖怪だろうがつらら女だろうが、先輩は先輩で、それに変わりはないんですよね?」
 先輩はこくりと頷いた。
「ならそれで……特にこうなんていうか、その……どうでも良いって言い方は変か。なんて言えばいいんだろう……」
 上手く言葉が出て来ない。そんな自分にいらついてしまった為か、俺はもう口にしないでおこうと思っていた言葉を、つい言葉にしてしまった。
「俺がその、先輩の事を好きな気持ちに変わりはないですから……」
 言ってしまってから、俺は自分が口にした言葉に気付いた。そして寒い室内の中で頬が急速に熱を帯びていくのを実感している。
「あ、いや、ごめんなさい、迷惑でしたよね……すみません」
 そう、迷惑なだけだ。
 俺は今日、先輩に告白した。
 時季はずれの人事異動で、先輩が本社に移転するという話を聞いた。
 その話を聞いた俺は、いても立ってもいられなくなり、終業直後に先輩を呼び出し、告白した。
 そして俺は……見事にふられた。
 その腹いせに、家に帰るなり物にあたり、そしてリモコンが壊れ……今に至るのだから、なんという巡り合わせか。
 入社以来、ずっと面倒を見て貰っていた先輩。
 まさにキャリアウーマンという彼女にずっと憧れていた俺は、何時しかそれが恋に変わっていた。
 学生みたいな恋だなと自分で自分を笑いもしたが、気持ちは止められなかった。
 そんな先輩が、本社に栄転。もう会えなくなると思った時には、告白する事を決めていた。
 思い立つと止まらない。今日ほど、そんな自分の性格をこれほどまでに呪った事なんか無かった。
 それなのに俺は、また軽々しく好きだなんて口にしてしまうとは。
 迷惑なだけだろう。自分の軽率さにつくづく呆れるばかりだ。俺はその場でうなだれてしまった。
「君は本当に……入社以来変わらないわね」
 先輩はそういって微笑んだ。どこか暖かで、でもどこか寂しげな、そんな微笑み。
「真っ直ぐで、危なっかしいくらい熱くて……「冷たい女」の私には、ちょっと羨ましいくらい」
 対面に座っていた先輩が、俺の方へ、俺の隣へ、近づいてきた。
「告白してくれたのは……嬉しかったの。本当は凄く嬉しかったの」
 先輩の手が、俺の手に触れる。ひんやりと冷たい手から、俺はなにか「温もり」を感じていた。
「でも……でもね、嬉しかったから……断るしかなかったの」
 俺を見つめる先輩の瞳は、溶けてしまうのかと思える程に潤んでいた。
「だって私……妖怪なのよ? つらら女という、妖怪なのよ……見たでしょ? 私はあんな風に溶けてしまう、妖怪なのよ……」
 触れていた手は、いつの間にか俺の手を握っていた。
「ほら、手だってこんなに冷たい……それでもまだ、私の事を好きだなんて言ってくれるの?」
 俺は先輩の手を払いのけた。
 そして払いのけた手で、俺は先輩を抱きしめていた。
「好きです、好きです! 妖怪だろうとつらら女だろうと、先輩は先輩です! 好きです、俺は先輩が大好きです!」
 抱きしめた先輩の身体は、とても冷たかった。
 その冷たさはかえって、熱くなりすぎる俺には心地良いくらい。
 知性も品もない、小学生のような三度目の告白。けれど俺は、自分の言葉に全ての持ちを込めていると自負している。
 先輩がつらら女である。その事実の重要性なんて、俺には考えてもよく判らない。
 大切なのは、俺は先輩が好きだという事。それだけで俺は充分だと信じている。
「……ありがとう……私も、好きよ。君の事、好きだよ……」
 背中に冷たい感触。先輩の腕が回されていた。
 強く強く、俺達は抱きしめ合っていた。
 そしてどちらからともなく、唇を重ねていた。
「んっ……これがキスか……」
 僅かに触れた唇を離した時、先輩が呟いた。
「ファーストキス。私「こんな」だから、男の人の手を握ったのも、こうして抱きしめて貰ったのも初めてだったのよ」
 意外だった。いや、言われれば納得出来るが、
 先輩はガキ丸出しの俺とは違い「大人の女性」という雰囲気そのままの女性だから、恋愛も一通り経験していると勝手に思いこんでいた。
 そんな先輩のファーストキス。その相手が自分だと知らされた時、俺の心臓が一段階早まったのを感じた。
「セカンドキスは、もっと「大人の味」を楽しませて」
 再び触れあう唇。そしてその唇を割るように舌が伸びる。
 テクニックなんて無い。二人はただがむしゃらに、お互いの唇を、舌を、求め合った。
「んっ……ちゅ、はぁ……くちゅ……」
 まるでアイスキャンディーを舐めているような、それほどに冷たい感触。しかしその冷たいアイスキャンディーはねっとりと口内を動き回る。
「キスって……いいわね。あなたの熱で口の中を解かされそうだわ」
 そしてサードキス。
 俺は羽織っていた毛布を投げ捨て、抱きしめていた腕を緩めた。
 そして自由になった手を片方、ゆっくりと先輩の胸へと伸ばした。
「あっ、ちょっとまって……」
 俺は驚いたかのように手を素速く引っ込めた。
 焦りすぎだろう。熱烈なキスを繰り返したからと言って、ことを早急に運びすぎたか。
 女性の扱いになれていない俺は、先輩の一言に萎縮してしまった。
「その……ちゃんと……服を脱がせて、ね」
 はにかんだ笑顔。俺は先輩の微笑みにコクコクと頷くだけ。
 すっと立ち上がった先輩は後ろを向き、一枚一枚、ゆっくりと服を脱いでいった。
 俺はその光景に見とれながら、急ぎ自分の服を脱いでいく。
 俺が脱ぎ終えてもまだ、先輩は下着姿だった。
 全裸になった俺は正座をし、後ろのホックを外そうとしている先輩の姿を凝視していた。
 はらりと落ちるブラジャー。そしてゆっくりと下ろされるパンティ。
 そして手で胸と股間を隠した先輩はこちらへ向き直った。
「綺麗だ……」
 透き通るような白い肌とは、まさに先輩の為にある言葉だろう。
 そして長い黒髪が肌の白さに映え、双方の美しさを際立たせている。
「そんなに見つめないで……」
 それは無理というものだ。
「良く見せて下さい、先輩……胸も、「そこ」も……」
 先輩は軽く目を閉じ、恥じらいに耐えている。それでもゆっくりと、手をどけていく。
 露わになった、胸と秘所。
 綺麗だ。もうそれしか言葉が浮かばない。
 むろん、興奮もしている。だが性的な興奮と共に、絵画を見るような芸術的観点でも先輩の美しさに引き込まれていた。
「男の人に見せるのも、もちろん君が初めてなのよ……」
 その一言が、俺に性的興奮の方へ傾かせた。
「なら、こんな事をされるのも初めてですよね……」
 俺は四つんばいのまま先輩ににじり寄り、秘所に顔を近づけた。
「あん!」
 ぺろりと、俺は茂みに覆われた秘所を一舐めした。
 かき氷を食べた時のような、ひやりとした感触が舌に伝わる。
 そして更に顔を近づけ、俺は本格的に秘所の中枢、陰門と陰核を何度も何度も舌で弄ぶ。
「ん、あっ、なんか……んん、やっ、あん!」
 先輩の手が、俺の頭をぐっと力を込めて掴む。
 初めて感じる感覚に戸惑いながら、しかし先輩は求めている。そう、手が俺に伝えてくれる。
 今この時程、自分の未熟さを悔やむ事はない。
 俺はただがむしゃらに、先輩の秘所を何度も舐めるだけ。
 もっと気持ち良くなって欲しい。先輩が初めてなら尚更。
 しかし俺のテクニックではたかが知れている……。
「いい、気持ちいいよ……自分でするより、あっ! 気持ちいいんだ……」
 前言撤回。
 俺は無我夢中でしゃぶりついた。
 テクニックがどうとか、気にしている場合じゃない。俺は今俺に出来る事を先輩にしてあげたい。
 舌と唇が、冷たさで若干痛みすら伴ってきた。
 それでも俺は、ひたすらに先輩を愛し続けた。
 次第に、俺の舌と唇から湿った音が漏れだしてきた。
「そんなに、音、立てないで……はっ、恥ずかし……んっ!」
 こればかりは、先輩の言う事は聞けない。
 俺は顔も左右に動かしながら、激しく音を立て先輩の秘所を舐め続けた。
 とろりとした先輩の愛液が舌に絡みつく。
 まるで先輩が中から溶け出してきたかのように、止め処なくあふれ出てくる。
「お願い、これ以上は……切ない、し……ほっ、本当に、溶けちゃう……」
 先輩を喜ばせる事ばかりに夢中になっていたが、もう俺の「息子」だってとうの昔に準備は整っている。
 焦りたい気持ちを必至に堪えながら、俺はゆっくり立ち上がり、先輩をベッドへと導こうとした。
「待って」
 それを先輩が止めた。
「ベッドは冷たくしてあるから……君には耐えられないと思うの……」
 そうだった。先輩のベッドはウォーターベッドになっていて、中はキンキンに冷えた冷水になっていると言っていた。
 となると、床で? しかし直接ここに先輩を寝かせるわけには……。
 俺は床に投げ捨てられていた毛布を敷き、そこに先輩を寝るよう導いた。
「優しいね、君は」
 そういって微笑む先輩を見られるなら、俺はなんだってしますよ!
 毛布に全裸で寝そべる先輩を、俺は改めてマジマジと眺めた。
 本当に綺麗だ。
 こんな女性を、妖怪だとかそんな「小さな事」で、どうして嫌いになれようか?
 この人を好きになって、本当に良かった。
「その、初めてだから……」
 握り拳を口元に当て、視線をそらす先輩。そんな態度も表情も初々しく、可愛らしい。
「いっ、行きますよ……」
 俺は自分の息子を握り、先輩の秘所へと導く。
「っ!」
 判ってはいたが、先端が先輩に触れた途端、あまりの冷たさに驚いてしまった。
「あっ……」
 その冷たさに、そうでなくとも心臓が胸を突き破る程に緊張していた俺は、更に緊張してしまい、
 急速に息子がしぼんでしまった。
「あ、あの……」
 折角、折角これから先輩と……何やってんだ俺。
 情けない。こんな、こんなところでこんな事になるなんて。
 俺は焦った。とにかくすぐにでも回復させようと、握ったままだった息子を必至になってしごき始めた。
 しかし、その手に触れる冷たい感触が俺の行為を止めた。
「大丈夫よ……焦らなくて良いから、ね」
 半身を起こしていた先輩が、優しく微笑みかけながら俺の手に触れていた。
 そしてそのまま足を後ろに回し四つんばいになる。
 優しく俺の手を息子からどけ、先輩が変わりに軽く握る。
 息子全体に冷たい感触。縮み上がると思っていたが、先輩が握ってくれているというその光景に興奮し、縮むのを踏ん張らせている。
 光景だけじゃない。俺はこれから起こりそうな展開に期待と興奮、そして驚きもあったから。
「ちょっ、先輩……」
 一度先輩は見上げるように俺を見つめ、そしてゆっくりと顔を俺の息子へ、唇を俺の息子へと近づける。
「あむ……ん……くちゅ……ちゅ……」
 冷たく、それでいてねっとりとした感触が息子の全身を包む。
 ひんやりとした先輩の舌が、息子の上へ下へと動き回る。
「そんな先輩、汚いですって……」
 口では言うが、むろん本心はもっと続けて欲しい。
「……さっきのお返し」
 一度口を離した先輩が、見上げながら一言。そして再び俺の息子を口に含む。
「んちゅ……ん、ちゅ……ん……」
 先輩がぎこちないながらにも一生懸命に舐めてくれる。それだけでも心地良い。
 ちゅぱちゅぱと聞こえる湿った音も、直に感じる感触も心地良い。
 そして俺を縮み込ませた冷たい感触すら、今ではむしろ癖になりそうな程に心地良い。
「せっ、先輩、そろそろ……」
 本当はこのまま続けて欲しい。先輩の口の中に放ちたい。
 しかし、早く先輩と一つになりたいのも本音。
 先輩にも感じて欲しい。先輩と共に感じたい。
 ゆっくりと唇を離した先輩は三度見上げ微笑んだ。そして自分から毛布の上に先ほどと同じように寝そべった。
 もう失敗は出来ない。俺は先輩の腰に自分の腰を近づけ、息子にしっかりと照準を定めさせた。
「行きます……」
 少しだけ、先輩の顔が強張る。
 一瞬躊躇してしまいそうになる俺の心。だが俺はその心を奮い立たせ、一気に腰を沈めた。
「んっ!」
 唇を強く閉じ、目を伏せ、先輩は痛みに耐えている。
 先輩の陰門は充分に濡れていた。思ったよりもスムーズに腰を落とせた。
 しかしもちろん、途中に一つの「壁」もあった。俺はそれを一気に貫いた。
 その証が、二人の結合部分より僅かにしたたり落ち、毛布に赤い染みを作る。
「大丈夫……ですか?」
 先輩の閉じたまぶたから、僅かに光る雫が。
「大丈夫……痛いけど、それより、嬉しいの……」
 まぶたを開け、潤んだ瞳をこちらに向けて先輩は言う。
「私も、私でも……こうして「女」になる事が出来たんだね……ありがとう、ありがとう……」
 礼を言われるとは思わなかった。
 そんなにまで、先輩は自分の出生を気にしていたなんて。
 オフィスでは凛々しく業務をこなしている先輩の姿ばかり見てきた。
 そんな先輩の、弱い面を見た。可愛らしい面も見た。
 色々な先輩を見た。全てが愛らしい。
 そんな女性を「女」にした喜びに、俺は感激すら感じていた。
「そんな、俺の方こそ……ありがとうございます」
 先輩が「女」になったと同時に、俺も「男」になった。
 繋がったまま礼を言い合う二人。そんな状況に二人して笑い合った。
「あの……動かします」
 笑顔のまま、こくりと先輩は頷いた。
「んっ! ん……んっ、あっ……んっ、くぅ……ん……」
 腰は思ったよりは滑らかに動いた。痛みに耐える先輩を気遣い、俺はゆっくりと腰を動かし続ける。
 先輩が声を上げる度に、息子を包む先輩の中がきゅっと締まる。ゆっくりであっても、その締まりだけで果ててしまいそうになる。
 俺は耐えた。いきそうになるのを耐えながら、ゆっくりと腰を動かし続けた。
 先輩にも気持ち良くなって欲しい。その一心で。
「んっ、あっ……んふ、ん……あっ、いっ……ん、あっ!」
 僅かに、先輩の声色に快楽の色が混じり始めている。
 初めから感じる女性は少ないと聞いた事がある。たぶん未熟な俺では、先輩を「最後」まで導く事は出来ないだろう。
 それでも、少しで良いから感じて欲しい。俺は必至になって腰を振り続ける。
「いい、よ……ん、きみ、が、いきたくなっ……ん、たら、いって、いい、から……」
 優しく、先輩の手が俺の頬に触れる。
「うれしい、の、こうして、きみ、と、ひとつに、なれる、だれけ、で……だか、ら、ね……いって、いって、ほしい、の……」
 幸せそうに、先輩が笑う。
「いって、うれしい……なかで、いい、から……この、まま、わたし、に、きみの、を、ね、おねが、い……」
 腰の動きに歯止めがきかない。優しくゆっくりと思いながらも、激しくなっていくのが抑えられない。
 痛みはまだある様子だが、先輩は笑顔を絶やさない。
「いきます、先輩……くっ、いきます、いきます!」
 どくどくと、先輩の中に俺のものが流し込まれていく。
 どちらからともなく、二人は唇を近づけ、そして触れあっていた。
「先輩、その、俺……」
 自分ばかり満足して、先輩を最後まで導けなかった。その不甲斐なさを詫びようとしたその時、先輩の指が俺の唇に触れた。
「仕方ないわよ、初めてだったし……それに、その……何度もすれば、あの、き、気持ち良く、なれるっていうし……」
 はにかんだ先輩は、本当に可愛らしい。
「これだけじゃ、ないでしょ? これからだって、もっと、その……愛して、くれるわよね?」
 返事の変わりに、俺は再び先輩の唇に自分の唇を当てた。
「やっ、ちょっ、もう? もう、あっ、ん!」
 繋がったままだった二人。俺はゆっくりと先輩の中で膨張していた自分の息子を、また大きくゆっくり動かし始めていた。

「あの、先輩……一つ訊いて良いですか?」
 三度目にして、どうにか先輩を最高潮とは言わないまでも満足してもらえた。
 その後二人して、床に寝そべったまま余韻を楽しんでいた。
 とはいえ、俺は流石に裸のままでは寒すぎるので全身を毛布でくるませて貰っているが。
「どうしてあんな所で倒れていたんですか?」
 先輩との愛を確認し終えた後、この疑問が急速に頭の中へ浮上してきた。それを俺は包み隠さず尋ねてみた。
「あっ、あれはその……」
 視線をそらし、先輩は恥ずかしそうにしている。
「よっ、酔っぱらってて……その……」
 酔っぱらった? 最初こそ酔っぱらいかと思っていたが、本当に酔っぱらいだったと言う事なのか?
「君に告白して貰って、でもそれに答えてあげられなくて……私、とても悲しくて、それでその、一人で……」
 先輩の話によると、悲しみを酔って忘れようとかなり飲んだらしい。
 元々つらら女は身体が氷で出来ている為、アルコールには強い体質らしいのだが、その許容量を超えるお酒を浴びるように飲んだらしい。
 そして泥酔した先輩は、記憶無いまま千鳥足で街をふらつき、
 気が付いたら熱帯夜の中で身体が動かせなくなっていたらしい。
「えっと、つまり……俺のせい、ですか?」
 偶然俺が通りかかったから良かったものの、あのままでは先輩は溶けて無くなっていた可能性だってあった。
 俺が告白したために、先輩の命が危険にさらされる事になっていたなんて。
「バカね……何言ってるのよ」
 つん、と先輩は人差し指で俺の額を軽く突く。
「君が告白してくれたから、巡り巡って「今」があるんじゃない」
 告白し、ふられた俺は八つ当たりでリモコンを壊し、氷を買いに出かけた。
 先輩は告白され断り、その寂しさから酒を飲んで泥酔し、道ばたで倒れてしまった。
 そして二人は再会し……「今」がある。
 全てが偶然。偶然の積み重ねで、「今」がある。
「君のおかげだよ。ありがとう、告白してくれて」
 唇に、もう何度目かも判らない冷たい感触が伝わる。
「でも、先輩は……本社にいってしまうんですよね……」
 そう、そもそも告白しようと思ったきっかけは、先輩が栄転するという話を聞きつけたから。
 折角先輩と結ばれたのに、数日後には離れてしまう。
「え?……ああ、そういう事。だから告白してくれたんだ」
 それなのに、先輩は笑っている。何がそんなに可笑しいのだろう?
「行かないわよ、本社には」
 俺は耳を疑った。今なんて言いました?
「確かにね、本社に行かないかって話はあったわ。でも私はほら、つらら女だから、都会の人混みや暑さには耐えられないのよ。だから断ったの」
 つまり、俺が聞いたのは先輩が噂の段階で決定事項ではなかったと言う事か?
 たぶん、よく聞けば栄転の話は噂だと判ったはず。
 だが何事も先走りしやすい俺の性格が、話もよく聞かずよく考えず、告白へと突っ走らせたんだろう。
 普段は後で後悔する事の多い俺の性格だが、今日ばかりは感謝している。
「だから、ね。これからも君の先輩で、そしてこれからは……君の恋人、だね」
 頬に冷たくも熱い感触。部屋の温度も先輩の体温も冷たいが、二人の心はとてもとても熱くなっていた。

戻る